2010/03/19
私も所属していた、
小澤音楽事務の会長が他界
私が20歳で、作曲家を目指して上京した話しは、前にお話しした事がありました。
『すぐに使える実践方位学』の中でも、私がレコード会社やプロダクション、音楽出版社に曲を売り込みに歩き回り、50社目の「J&K音楽出版社」で、遂に念願のレコード発売に辿り着けた話しをしました。
その六本木にあるJ&K音楽出版社、その私の人生を変えたJ&Kは、小澤音楽事務所の当時社長だった小澤惇(あつし)氏の会社だったのです。
その小澤惇会長が3月13日に、肝細胞がんのため亡くなられました。(享年 71歳)
とても人間的に魅力ある方でした。
J&KのJは、小澤惇のあつしを音読みでジュンと読み、Kは仕事のパートナー松村慶子さんのケイコからとって、J&K(ジュンアンドケイ)音楽出版社でした。
もう、私が曲を売込みに行った当時、小澤音楽事務所は、正に飛ぶ鳥を落とす勢いの会社でした。(実はそんな大きな会社とはまったく知らずに、売り込みに入った私でしたが)
何といっても、ナベプロ、ホリプロ、小澤音楽事務所、という3社が、プロダクションのトップ3といわれる時代でしたから。
社員の持つ名刺の裏に所属歌手がズラーッと明記してあるのですが、菅原洋一、伊藤ゆかり、中尾ミエ、柴田はつみ、ロスインディオス、にしきのあきら、佐川光男、淺川マキ、小椋圭、麻丘めぐみ、ダ・カーポ、森田童子、桑名正博、欧陽菲菲、リリィ、弘田三枝子 etc…..
そうそう、小室哲哉さんも所属していましたね。
今では、懐かしい名前としてたまに聞く事はある人たちですが、当時はもう、どの人も大スターで、大ヒットが続出でした。
小澤音楽事務所の系列会社は、20社ぐらいあったと思います。どれ程の年商だったかは分かりませんが、もの凄かったと思います。
全国の一流ホテルのディナーショーのシェアーだけでも、全国の3分の2なんて言うほどでしたから。
当時21歳頃の私は、作曲家であり歌手としてJ&K音楽出版社に所属していたのですが、小澤会長とは、数回だけお会いしました。ある時、小澤事務所のビルのエレベーターの前でばったりお会いし、一緒に事務所のある3階?まで上がりました。その時エレベーターの中で、小澤さんが、
「西谷君、頑張ってくれよな、期待してるよ」、と声をかけてくれました。
当時の私は、まだ実力が伴わなくて、期待に添えなかったのが心残りですね・・・。
10万枚の中ヒット?は、作曲家として『あの頃に帰りたい』、と作曲と歌手で『へのへのもへじ』、と2枚出したのですが、全然足りませんね。(3年ほどで手相鑑定が多忙となり手相家の生活に)
* 曲は西谷泰人ホームページのお楽しみコーナーで聞くことができます。
ところで当時(今から35年前ですから)、へえ・・、小澤さんはその時36歳・・・という事になりますね。
調べてみると、小澤さんは28歳頃に独立しています。
すごい才能ですね! 36歳時点で、レコード大賞をいくつ取ったでしょうか? ミリオンヒットを何枚出したことでしょうか? 何人の大スターを作ったでしょうか?
一人のスターを作るのさえも難しい中で、次々に大スター、そして大ヒット・・・。
当時、TBSの超大物プロデューサーが、こう言っていました。
「小澤さんが動けば、幾らでも売れるでしょう」
そんな時代が35~40年前でした。
これは、才能と運ですね。
独立して、すぐに菅原洋一さんでレコード大賞を取る運の良さ。
松村慶子さんという、最高のパートナーに恵まれた運の良さ。
ツキも才能もある、運のいい歌手や作詞・作曲家と巡り合えた、強運の小澤惇(あつし)会長。
長い間、ご苦労様でした。
<スポニチニュース>3月18日
小澤惇会長の通夜…中尾ミエら1000人が参列
肝細胞がんのため13日に亡くなった芸能プロダクション「小澤音楽事務所」の会長、小澤惇(おざわ・あつし)さんの通夜が17日、東京大光山霊源寺で営まれた。
葬儀委員長を務めた菅原洋一(76)や伊東ゆかり(62)佐々木秀実(29)ら所属歌手をはじめ、中尾ミエ(63)や音楽関係者ら約1000人が参列。人望の厚さを物語るように500を超える供花が届いた。
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2010/3/19≪お便り≫ 3月19日に購入できました
西谷先生、こんぱんは。
発売日前に「あおい書店品川店」<品川駅港南口を出て右へ。品川イーストワンタワー2F>で『流年手相術』を購入できました。
運がよかったです。ありがとうございます
.(T.K.男性)
新刊情報のご連絡、有難うございます~!(西谷)