2012/1/23
人生に一番必要なもの

以前雑誌で見た、プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんの保管していた記事を、今日 部屋でふと目にし、読み返しました。

三浦雄一郎・・・みうら ゆういちろう。

 1932年10月12日 青森市生まれ。登山家・プロスキーヤー。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて 参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネスブック掲載)を成し遂げ、その記録映画 [THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST] はアカデミー賞を受賞。

 1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年次男(豪太)とともにエベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立(ギネス掲載)。

 アドベンチャー・スキーヤーとしてだけでなく、行動する知性人として国際的に活躍中。 記録映画、写真集、著書多数。

 彼が語るそのインタビュー記事の中には、人生で一番必要なことが書いてありました。
 要約して、皆様にご紹介しましょう。

       人生には目標が必要だ 

●80歳でのエベレスト登頂を目指す

 70歳と75歳の時にエベレストの頂上を極めた三浦はいま、再来年5月(注ー 2013年の5月のこと)の80歳での登頂を目指して準備を進めている。成功すれば、現在の記録を4歳上回る世界最高齢の快挙となる。

 2年以上前からトレーニングに入り、背中に20kg、両足にそれぞれ4kgの錘(おもり)をつけて東京の街を歩く。
 三浦には、「人生は何よりもまず目標が必要だ」という信念がある。

 それは37歳の時に世界中が注目し驚愕した、富士山での直滑降への挑戦(スキーでのスピード、当時172.084km/h)の記録樹立や、今回の70歳超えてからのエベレストへの登頂を目指したのも、1度では満足せずに2度目、3度目の登頂に挑むのも同じ理由からだ。

 ●引退・・・、 食べて飲んでメタボ生活へ

 1985年に世界7大大陸最高峰での滑走を達成。60歳近くになって初めて「定年退職」だという気持ちを抱き始めた。
 「ところがそれが良くなかったんです」と彼は話す。

 「夢をやり遂げたと勝手に決めて、食べ放題、飲み放題の生活を当時の僕は送り始めた。65歳の時はもう、すっかりメタボ体型。高血圧、糖尿病、腎臓も危なくて、心臓の不整脈も悪化してきた。黙っていれば、そのまま病人になって死んでもおかしくないような状態になってしまった」

 同じ頃、三浦家は90歳を過ぎても山岳スキーを続ける父の敬三、2度の五輪出場を果たし、世界選手権で戦う次男の豪太を含め、親子3代の「健康家族」としてメディアで取り上げられることが多かった。

 三浦は東京と北海道、アメリカに家を持ち、普段は妻とともに北海道で過ごすことが多い。

 当時はその札幌の自宅の裏山を登るのも覚束無い(おぼつかない)有様で、朝になると背中のあたりが痛み、二日酔いのように体がだるかった。
 「健康家族」を演じれば演じるほど、今も現役を貫く父親や次男のことを思い、胸に空しさや恥ずかしさが生じた。

 ●復活

 「僕は『この原因って何だろう』と考えました。もちろん原因は運動不足、食べ過ぎと飲み過ぎです。

 しかし、なぜそうなってしまったのかという原因の元にある原因は、命を燃やすような夢や目標を失っていることにある、と。

 そこで、どうせこのままでは病気で死んでしまうのだから、エベレストに登ってみようと思った。同じように死ぬ思いでやれば、また登れるんじゃないか。
 それにこの最悪の状態から出発して世界最高峰に登れば、世界中が驚くはずじゃないか、って」

 三浦の挑戦が、誰も経験したことのない何かをスキーで行なうことから、「年齢」に対するものに変わったのはこの時だ。

 以来彼は、体に錘(おもり)を付けて歩き始め、その重さを徐々に増やして行く・・・。
(週刊現代 2011.8.6号より)

 これが保管していた記事です。

 三浦雄一郎さんのモットーは、
 「なんとかなるだろう」、「やればできる」 なのだという。

 70歳過ぎてから、2度のエベレスト登頂に成功していますが、同行した豪太さんによれば、70歳の時よりも75歳での登頂時の方が、体調ははるかに良く見えたといいます。

 その原因の一つは、70歳と75歳の間に、懸案だった不整脈の心臓手術を行なった影響だろうと本人(雄一郎さん)は語る。なんでも、心臓の155ヵ所の神経を、手術で焼き切ったといいます。

 元気になったらやろう、ではないですね。
 ”やろうとすると元気になる”、これが真理なんです。

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